Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その12

また前回から日が空いてすいません! 全く進歩など見られず、それから遠ざかっていくばかりのゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

ドラウナーズのリリースへの反応は、その二重性の観点から興味深いものだった。世の中の大多数は、わずかな理解の囁きもなしに通り過ぎ、メディアのメインストリームに衝撃ゼロを与え、どうにかチャート49位になった。しかしながら小さなサブカルチャー界隈には、僕はそう言うのが不格好になるだろうとは思わないが、激震として歓迎された。それはおそらくひどく自意識過剰に聞こえるだろうし、僕はその出来事の後の僕らが作り上げたものたちと本当の記憶との区別をつけることと、それが僕自身の他を抑圧するソリプシズムをすっかり超越していると判断することをしようとしているが、僕が本当に思い出すのは、週刊音楽雑誌の世界とロンドンのインディー界隈の中では、レコードは大喝采と不名誉な一節も勝ち取ったことだ。僕らは知らず知らずの内に変化の震源地になっていたと思う。いくらか騒々しく、現在の停滞したシーンの代わりとして発生し、いくらか僕らが自分自身の洗練されて自信に溢れた魅力を開発したからで、ー驚くべき新しいものの表現ーけれど主に、僕は自分を持て囃したいのは、なぜなら曲は素晴らしいからだ。僕はずっと歌の持つ力の熱心な信者であってきた。愛しているのは最も簡単な設備で実現可能なことと、その限界と可能性の複合と共に、ピアノの鍵盤かタイプライターで同時に奨励し嘲笑し、その秘密は自分の指先でひどく魅惑的に留まるがいまだ届かず、安いギターとボーカルと、ささやかなインスピレーション、自分自身の想像力によってのみ区切られた何か素晴らしい錬金術に向かって手を伸ばし、何か素晴らしいことを開放する限界にあるかもしれないという感覚にワクワクしているということと共に座っている時だ。言葉と旋律の強く説得力のある相互作用は僕の幼少期から影響を与えて、バーナードと共にソングライターとして本当に話し始めた気がしたことで、それは何年にも渡って失われた技術となってしまったものだった。
 曲の暗いセクシュアリティーの存在についてこの本の中で言及しないのは不誠実になるだろう。「ザ・ドラウナーズ」の曖昧ではっきりしない言葉と、「マイ・インセイシャブル・ワン」の観点の移動はEPに熱い肉欲のエッジを与え、それは僕がきっとバンドについて色々な所でされている会話を付け加えたものだ。僕は作曲のこの要素についてはとても自覚的で、僕を夢中にさせた他者の作品から注意深く引き出すことに積極的だった。それを考慮するとほとんどのポップミュージックは過度に潔癖で退屈で、でなければセックスが主題になったら漫画のように空虚に表現され、ありきたりな表現(cliché)を超えて深く考察されたようには思えなかった。初期のインタビューで僕がかつて言ったのは、僕が語りたいのは「美しいベッドより使用済みのコンドーム」で、えへん、初期の曲の鋭い一撃を見るのにいまだ正確な方法だと思う。命のことについて作曲するのと、セックスについて作曲するのを同じことだと僕は見做していた。細部への探究、失敗と恐れを横目でちらりと見るためのレイヤーの探究、躊躇いと混乱の瞬間、同様に単純な二項対立は通常は制限されている主題へとカテゴライズされる。もちろん、わざと挑発的で議論を呼ぶようにしていると見る者もいるだろうが、その中心は、僕の周りに見える世界を記録しようという単純な試みだった。メディアのレンズは僕が自分自身にやり直していたことを屈折させ反射して、僕はそれに答え、続く作曲に影響を与え、それは無意識に段階的に僕の育ちゆくペルソナの玉ねぎに薄い皮を付け加えたが、自分の作品を議論の場に導く者は誰もおらず、悪循環からは抜け出せそうにない。同時に、ある段階において僕が自分が何をやっているか気づいていたことを認識しないのは不誠実だろう。曲の中にセックスを詳述することを奨励したのは、いくらか挑発したいという欲求があったことに違いない。僕は常にそれはポップミュージックの芯となる目的だと見做してきたーうん、どうにしろ素晴らしいポップミュージックだー激しい感情を引き起こし、感情を掻き立て、盲目的に従わせ、その極端な反応の結果は、嫌悪と憎悪でさえあった。とても早い時期からそれは僕には明らかであって、スエードは熱狂と冷笑を同程度に引き越こすグループで、ほんのわずかな感情がそのスペクトラムの真っ只中に向かっていく。それがよかろうが悪かろうが僕らが一緒に生きていかなければいけない特性で、自分の足のサイズについてどうにかしようとしている誰かさんのようで、似たような方法でバンドは自分たちがどんなバンドであるのか、その限界と共に励み、利口であればそれを自分たちの利益のために使うことを受け入れざるを得なかった。