Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その13

 ブレ様翻訳行きます! 一応文法とか勉強したけど全く頭に入ってこないボケんだらが訳しているうんこ翻訳だということを御了承いただける方のみご覧ください。原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

犬の糞とダイアモンド

 

 サイモンはガチャガチャと音を立てるトライバルタトゥー(ここでは波型のタトゥーのようなリズムのことと思われる)は洞窟のような空間にカタカタと鳴り、バーナードの叫ぶギターは「ムーヴィング」が熱狂の終焉へと突き進んでいく際に、最後の狂ったコードを弾き出した。僕は規則的になったり不規則になったりするリズムの中でマイクのコードをしならせ、モニターの上にふらふらと立ち(文字通りはこの意味だが、ステージ上で危機的な状況にある場合でもある)、曲がその暴力的な最後にグシャリとなる、勝利と汗まみれの、観客の一人一人が分からない様子を荒々しく見つめていた。そして突然訪れた静寂の中、退屈しきった一群、グラム風のネッズ・アトミック・ダストビン(1987年にイギリスで結成されたオルタナティブ・ロックバンド。1980年代後半から1990年代初頭にかけて活動し、特にイギリスのインディーシーンで人気を博した)のTシャツを着た生徒が不愉快そうに移動し、靴を見つめていた。一・二のなおざりな拍手はあったが、沈黙したベニュー全体を覆う煙たい喧騒の上に、同じ質問が投げかけられていた。「キングメーカー(1990年代初頭にイギリスで活動したオルタナティブロックバンド。1991年に結成され、1995年まで活動した)はいつ出るんだ?」と。

 

 僕らの上昇に続いた興奮が高まる頃、僕らはキングメーカーと呼ばれる、九十年代初期にかなりの人気を博し、ミディアムサイズの大学のベニューのサーキットに忠実なファンを得たバンドのサポートをオファーされた。他のファンに向けてライブをするのはあまり楽しくない。彼らの冷淡な好奇心とぼんやりした疑いを本当に貫き、実際のエネルギーを生み出すのは(文字通りはこの訳だが、実際はエネルギーや効果が生じていない状況)難しいが、歯を食いしばり、無言の反応に対して自分を強くもつのは、急成長するバンドとして踏まなければいけない必要なステップだ。このため、僕は僕らの特筆すべきパフォーマンスを少しも覚えていないが、ツアーは活気に満ち楽しく、僕らはキングメーカーと上手くやり、僕は深夜に何回かビールを飲んで話し、サウンドチェックの合間にシンガーのロズ、シャイだが聡明で繊細な僕が好ましく思った男とお喋りをした。ツアーの最高潮はケンティッシュ・タウンのザ・タウン・アンド・カントリー・クラブのショウで、僕らが一九九〇年に期待外れのつまらない夜を過ごして経験を積んだ、ザ・ブル・アンド・ゲートのすぐ近くだった。その時にザ・タウン・アンド・カントリーは確実に僕らがプレイしてきた中で一番大きな会場で、その理由だけで僕らにとってはチャンスだった。またしても僕は僕らの素晴らしいショウを覚えていないが、その夜がメロディー・メーカーのスティーヴ・サザーランドを挑発して、有名な挑発的な記事を書かせたのだった。次の週の火曜日に雑誌を取ると、「豚に真珠」という見出しと「犬の糞とダイアモンド」という辛辣な言葉に直面し、それは僕らとトリの間の不均衡さを知覚して表現されたのだった。さらに狡猾なのはスティーヴのその状況の政治的操作で、「犬の糞」のバンド(キングメーカーとその他)の集団をライバル雑誌のNMEと同等化することに利用し、彼が「ダイアモンド」と見做したバンド(スエードとその他)をメロディー・メーカーに結び付けたのだった。争いの火蓋は切って落とされ、宣戦布告された。それは扇動的で、僅かながら、彼が一年かそこらの後にNMEの編集となった時に、多くの辞職者が続出したらしいことに、まさしく影響力がある文章だった。
 その特定の記事のメリットと意見への見解がなんであろうと、それがチューツパー(他人や社会の期待に反して行動したり、困難な状況で挑戦的な態度を示したりする人の行動様式を表現するスラング)だと否定できないと思う。僕にとって、それは扇動的な週刊音楽雑誌のジャーナリズムの頂点を示していた。この時から、火曜日の朝に雑誌を手に取ることは自分の命を自分の手に取ることを意味するようになった。記事とコメントは残忍で激しく残酷で個人的で胸が潰れるようで、嵐の中心にいる重要人物として、僕はその両面を味わった。同じ発行物の中に、僕は泥の中を残酷に野蛮に引きずられたり、神の血を引く何かとして同様に馬鹿らしく投げ出されたりした。若い男として、病的な自己反省と誇大妄想的なナルシシズムとの間で揺れ動き、その過酷な状況の中に自分を位置付けて見るのは時としてほぼ不可能だった。個人的な話、自分と自分の作品について書かれていることをどうやって無視すればいいのだろう。もちろん、「自分の記事なんて絶対に読まない」と主張するミュージシャンもいるが、それはきっと少数で想像するより少ない。それは、「自分たちのために音楽を作っていて、誰か気に入ってくれる人がいれば、それは予想外のボーナスだ」というその種のミュージシャンの使い古された決まり文句(cliché)で、悩み事がなく軽薄であると仄めかし、そのアーティストが他人が自分をどう思っているか拘泥する些事など通り越している人たちで、しばしばそれが全くの作り話ではないというロマンティックな提示だ。真実は、自分の作品を論争の場に持っていく行動は、メディアからのある種の承認と反応への嘆願だということだ。ある種の多くのバンドは軽視しているけれども密かに探し求め、それが肯定的であれば貪り食い、そうでなければその不快さの中で身を捩る。プレスが悪いのなら単に無視すればいいと思うだろうが、苦痛をいくらか平行して消化することを、「乗り越える」必要が僕はあったと思う。僕への心理的効果ー特徴は誇張されて抑圧されたー、とその経験なしに僕がいまどんな人間になっているか知るのは難しい。心に傷を負わずに歪められた真実から逃げられる人間はいないと思うが、それもまたこの楽しい小旅行を始める時に交わした契約の一部なのだ。与えられたご褒美はとても素晴らしく、思うに、結果として虐待の形態となることは受容可能だと見做されたーそれは現代の剣闘士闘争のようで、その勝利の価値は血みどろの追跡を正当化した。周りの人間に「深刻に取るな」と言われても、自分のペルソナから切り離し、全てのことは他人に起こっていることだと見ることができる瞬間は決してなく、月日が流れるうち、まるでデートかなにかのように、自体は想像していたように決して容易くはならない。