Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その11

お久しぶりです! 体調やらなんやらでサボってました、すみません。その間にも全くの進化が見られないうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で、明らかに違う箇所がありましたらお願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 冷静な導きがないことは、僕らに備わっている特性と周りにいる人たちの本性を全く露わにしてしまうことだった。サウルは間違いなくその時の僕らのメントルの中でもっとも経験値が高いが、それと同時に、彼は、それ以上でなくても、僕らの周りに渦巻き始めた騒動にぞくぞくしている節があり、事件が詳らかになると熱狂と狂熱に支配され、まるでそれが彼の物であるように僕らの成功を熱心に励まし、気がつけば僕らは荒々しい旅を始めて、それに捕らわれていた。それは目にしたことがない、苦難を切り抜ける時が来たときに助言を求めるべきルールブックのない状況で、アーティストとプレス、次の10年のメディア展望を決めるプレスとの間の変わりつつある関係の只中に、モルモットよろしく、何も考えずに自分たちを投げ出していたのだ。スエードへの反応は、他ににた存在が極めて少ないために不釣り合いで、それは僕が語る必要があると特に誇るものではないが、それが僕らの物語に必要不可欠な要素になった。そこにいなかったり、忘れてしまっている人にとって、僕らがデビューアルバムをリリースする前でさえ、最終的に19の雑誌を麗しく飾ることに言及するのは、メディアの反応の規模を察することができるかもしれない。そしてそれは、少なくとも後々のバーナードのバンドからの拒否と放逐に繋がる、有害な結果を生み出すことに無論繋がっている現象だったが、一方で充満するせん妄はまだ楽しく思われ僕らの前のシートに座って、ドライブを楽しんだ。
 そのEPは一九九二年の五月11日のリリースのために書かれ、一旦録音とミックスされたら、僕に残されていたことはアートワークの決定だった。アルバムジャケットがどうしてか音楽を定義づけて屈折させ、正しいイメージが完璧に歌と同調するほどに協力になることを僕は愛してきて、ヒプノシス(1970年代を中心に「ピンク・フロイド」「ジェネシス」「レッド・ツェッペリン」ら数々のアーティストのカバーアートを創作したアート集団)、ジェイミー・リード(セックス・ピストルズなどのビジュアルデザインを手掛けたグラフィックデザイナー)、ピーター・サヴィエル(ジョイ・ディヴィジョンニュー・オーダー、ハッピーマンデーズなどのジャケットのデザインを手がけたグラフィック・デザイナー)の作品を眺めながら、一〇代の時間を終わりなくダラダラと過ごした。多くの侘しい週の中頃を中古ショップと蚤の市をとぼとぼ歩くことに費やし、僕は白黴の生えた本の図書館を建て、その中の一つがホルガー・ トリュルシュとモデルのベルーシュカの作品だった。超現実的で熱の籠ったイメージは何年も僕を魅了し、男性もののスーツでボディ・ペインティングされ銃を持った裸の少女の絵には特にだった。それは曲の不道徳なテーマのいくつかに沿った完璧な表現に思えたー恐れとセクシュアリティーの混合、喜ばしい両性具有の混沌ー、そしてこれが僕らのEPのアートワークになった。安っぽく酷い出来の、ほぼ状況主義者のカバーの質がとうとう出されたのは、実は低予算による幸運な事故で、レコード会社が2色しか使う予算がないと僕らに告げ、素晴らしく幼稚なコピペの俗っぽさを与えることになったーほぼ自家製の質が初期のレコードジャケットの全シリーズのヴィジュアル・テーマになった。