AWTBD パート1 その23
この時点だけでも、急激な人生のスピードは酷く疲れるものになっていった。僕の日常は終わりのないインタビューで詰まり、楽屋はメイクとフランス人のジャーナリストと「簡単な話」をしたがる偉そうなアメリカ人のA&Rの男たちが列をなしていた。もちろん最初はこの狂宴の非現実的な目新しさは大いに楽しかった。彼らとは一定の距離をおき、嫌な渾名をつけ、ふざけたモノマネをしたが、しばらくすると、家畜のように囲いから囲いへと引き摺られているような感覚に陥った。最初はどれほど魅力的に見えても、それが日常になるのは特筆すべきことで、不愉快であってさえも、僕はポップスターたちが自分の人生に苦しんでいるのがずっと大嫌いだったーもちろん、恵まれた人生を送り幸運と特権に満ちた非現実的な立場にいることへの、生意気で無礼で人を見下した返答に思えた。続くメディアへの露出と僕らの周りをふわふわと漂うぼんやりとした悪評は、たとえ僕が「有名」でなかったとしても、はっきりと僕を認識できる存在にした。僕は今でもよく自分が触れてきた奇妙なレベルのセレブの世界について振り返ることがある。それがバンドそれ自体について何か正確なことを言っているように思えるからだ。まさしく現実に有名なのかそれともそうでないのかを実際に知ることは、公の目に晒された人にはほぼ不可能だと僕は思う。経験それ自体が判断を歪めるため、判断することをより不可能にする、数値化できないことのひとつだ。徐々にゆっくりとバンドがメインストリームのかなり左寄りの立場に落ち着くと、お陰様で最近は人通りの中を完璧にあるけ、時折奇妙に熱心に見つめられることがあるだけだが、1993年の時点ではそんな簡単なことですらほぼ不可能だったのだ。人々の僕への反応には奇妙な二重性があるようだ。概して、最近の特徴は無関心さだが、時折、それが溢れるような感情的なやり取りを惹起し、願わくばそれに対して礼儀正しく対処できるやり方を身につけられいているといいのだが。まあ、大抵の場合はね。最初は、そう言う経験は未だ新鮮で、爽やかで楽しく感じられる。ステージに飛び乗るのと音楽を演奏するまさにその行いは虚栄心からくるものだ。言うんだ。「僕を見てよ! すごくない?」と。だから、「名声」とは最初の純粋な試みの自然な延長に過ぎない。一種の「絶対に有名になりたくなかった。自分は単なるミュージシャンなんだ」的な態度をとるアーティストに対して再び僕が思うのは、自分自身の中心にある本能への誤解と、不誠実であることが二枚舌のレベルに達していることだ。じゃあ、もしそうなら、わざわざ自分の部屋から出る必要があるのか?(訳者註;恐らくは、「有名になりたくないと言うのなら人前に出ずに、部屋の中に引きこもっていればいいだろう」という言葉が裏にあると思われる)実際の意味はこれだ。「名声と成功による悪い側面を持たなくていいという完全に自分の条件に合致する時のみにおいて、実は有名になりたかった」残念ながらそう上手くはいかない。成功、名声、好きなように呼べばいいが、それは気難しくて扱いにくい愛人だ。予測不能で気まぐれで不誠実で、最終的には有害な。御伽話に出てくる邪悪な女王のように、最初は彼女は魅惑的で謎めいていて焦らすような存在だが、服を脱ぎ捨てられるとすぐにその毒々しく悪意に満ちた本性を曝け出す。確かに、僕らはそれを知っているー同時代のフォークロアの布へと織り込まれ、それらの自明の真実は、トークショーと雑誌の記事とテレビドラマの風景にばら撒かれた。それは、「上があれば下がある」と定められた大いなるカルマの法則の一部だ。僕たちはじっくりとそれを知っているが、その知識を元に行動するのはまた違った問題だ。僕と彼女との軽い関係は野球帽を被った偏執狂のカリカチュアへと結実し、予想通り僕がぼろぼろになって自己崩壊と依存症に陥るが、明るいちょっとしたエピソードを聞くのは待たなければいけない。
AWTBD パート1 その22
1992年の秋に「メタル・ミッキー」はリリースされ、引き裂かれたシャツとライブ後の狂ったような耳鳴りと共に、大英帝国のトイレのツアーをひたすら進み、オックスフォードストリートの100クラブとヴィクトリアのSW1のような伝説的なぎゅうぎゅうに詰まった小さなベニューでの汗まみれのライブをした。シングルはトップ20に行き、トップ・オブ・ザ・ポップスのスタジオの周りを人形のようにいつものように跳ね回り、NMEの表紙を飾り、見慣れないタイトルが付けられた。未だ僕らをどう扱うべきか分かっていないようだったメインストリームのメディアはおそらくぼくらを気にかける必要はないと思っていたのだろう。一年もすると、デイビッド・バディエル(アメリカ生まれイギリス育ちのコメディアン)とマット・ルーカス(俳優・コメディアン)とスピッティング・イメージ(政治家や有名人を人形で風刺するテレビ番組)によってテレビでよく風刺された。トップ・オブ・ザ・ポップスへの出演は僕らの世代のバンドにとって大いに記念すべきキャリアの節目の一つだった。僕の世代の人間の誰もがそうであるように、学校が終わると、派手な髪型と狂騒の華やかなパレードを見つめながら、たくさんの雨の木曜日をダラダラと過ごした。だから、そこで演奏することを依頼されたのは、まるで僕らが静かで特権的な聖域に足を踏み入れたように感じられた。もちろん、これらのことのほとんどは、現実にはかなりちがっていて、ある朝にボアハム・ウッドの殺風景な小さな楽屋に押し込められ、何時間も待たされ、様々なチャート上のポップスターがちょこちょこと動き回り、カメラリハーサルの間に決まりきったダンスを完璧にしている間、冷めた紅茶とクッキーの乗った皿を前に背を丸めて座っていた。その時の経験の忘れられない思い出は、大袈裟な身振り手振りのパフォーマンスではなく、代わりに、イーストエンダーズ(イーストエンドを舞台にした長寿ドラマ)の出演者とスタッフと共に使った社員食堂で、僕ら全員笑いを堪えながらアーサー・ファウラー(イーストエンダーズに出てくるキャラクター)の横でベイクドポテトを噛んでテーブルに座っていた、素晴らしいランチだ。妙に白けた瞬間にも関わらず、僕らは次のステージに上がったという確実な感覚がしたけれど、今思うと、これが亀裂が現れ始めた瞬間だった。この初めの時期を通じて、メディアが僕たちの周りを執拗に嗅ぎ回るようになり、一つの問題が僕らに影響を与えていた。どうやって「プレッシャー(重圧、抑圧、ファンやメディアからの重い期待)」を取り扱うかだ。常にスエードには一種の頑固さがあり、相手のいいように扱われていると感じたら、相手の欲していることを簡単にはやらないという感覚で、だから、無頓着そうに用意しておいた答えをブツブツ呟いて質問を逸らした。「僕らが唯一感じているプレッシャーは自分たちからだ」といったような、何か決まりきったものだ。けれど振り返ってみれば、現実はかなり違っていて、水が亀裂を伝って出口を見つけるように、それは僕が予想していなかった方法でじわじわと僕らの世界に侵入し始めた。僕が憶えているのはこの頃にギグの前に僕はよく感情的に架空の「病気」を発症させていて、楽屋の隅に座って結核の詩人のカリカチュアのように激しく咳き込んでいたが、それは結局、アドレナリンが作用して軽やかにステージに躍り出るライブの数分前に現れるだけだった。他のバンドメンバーはそのことに特に意見はないようだったーおそらくは僕が注目を集めようとしていると思ったのだろうーけれど、きっとそれは、心の奥では僕が必死に応えたいと思っている僕らにのしかかる期待の重圧に対処する手助けをする複雑な自己防衛の仕組みの一部で、もしパフォーマンスに失敗した時の一種のあらかじめ用意された言い訳とすることだと理解していただろう。
AWTBD パート1 その21
ありふれた黒い革張りのスタジオのコントロールルームのソファーでYAMAHAのNS-10のスピーカーを通してミックスを聴くことは、僕らが長い時間をかけてやっていたことにおいて何度も味わうことになる苦い失望の味を初めて味わった瞬間だった。珍しく冷静で正直になれた瞬間、僕らが生み出したものはどうしても十分によくないものだということを悟った。僕らはフルハムのメゾン・ルージュ・スタジオに再び集まり、全てに違ったアプローチをし、僕らがステージでプレイしているもっとシンプルで荒々しいやり方にずっと近いスタイルでレコーディングすることを選んだ。今になって考えると、むしろ僕らはその直感をもっと突き詰めるべきだったと思う。密かに、そのシングルが「ザ・ドラウナーズ」ほど良くなく、スタジオバージョンが本能的なエネルギーという観点からするとライブバージョンと一致しないことに微かに神経質になっていた。ラストのやや意図しすぎたキー変更、未だ僕に僅かな渋面を作らせる、によって救われたとは思わない。それは全てのサウンドを少し「ミッキー・モスト(60年代・70年代を代表するイギリスのプロデューサー)」的にして、そうされるべきであった凶暴で獰猛な音のインパクトよりむしろ、安全なレトロポップの領域に曲を入れることにして、全体的に僕らは結果に満足なふりをして色んな事件の波に身を任せることにした。けれども僕にとっては、レコードの最高潮はB面の「ヒーズ・デッド」で、スエードの隠れた名曲群の中でもさらに隠れた名曲だ。
同時にバーナードは「ディクソン(Dixon)」という曲の一部を作っていて、不安定に揺れながらさまようようなギターフレーズは彼に「ドック・グリーンのディクソン(Dixon of Dock Green)(昔の刑事ドラマ)」のテーマソングを思い出させた。僕も努力したのだろうが、単純に、それを曲にする適切なメロディーと詩を見つけることができなかった。バンドはよくリハーサルでその曲をざっと演奏していて、僕がしかめ面で隅っこに座っている間、激しいエネルギーに興奮しながら、黙って無力な自分に苛立ちを感じていた。僕がそれを解き放つ適切な箇所を見つけさえすれば素晴らしい曲になる可能性があると知っているのに、僕が応じないことに、バーナードは急速に苛立ち始めた。レコード会社がオリンピアのノミス・スタジオに小さな作曲部屋を僕に与えてくれたので、煮詰まった紅茶を飲んでマイクに向かって不完全なアイディアを適当に口ずさんで、休日の空いた時間を4トラックのポータスタジオ(宅録の機械)に屈み込んで過ごした。ある日僕は28番のバスを降りて再び曲に取り掛かり始めた。前の日の晩に僕はどこかに出かけていて、どこかのベニューの奥の、うるさい酔っ払い同士の会話の最中に、誰かが「アニマル・ナイトレート」という言葉がどう聞こえるかと言ったことを聞き間違えていた。子供っぽさと暗い暗示の遊び心に満ちたブレンドを気に入って、僕は急いでトイレに駆け込み、チカチカする蛍光灯の下で、アイフォンの開発の前によくポケットに入れていた多くのノートの一つにその言葉を書き、次の日にノートを開いてそれが僕を見つめ返すのを見るまですっかり忘れてしまった。時としてタイトルが曲を解き放ち、作曲者として追い求めるべきテーマを示し、アリアドネの糸を辿るテセウスのように手探りして必死に追うのだ。僕はそれの中に荒廃した住宅街、崩壊した家庭、歪んだ性的な遊びを見て、音楽と結ばれると、僕はその不吉なニュアンスと捻くれたポップなキャッチーさの奇妙なブレンドにゾクゾクした。僕はずっと何か有毒な、手遅れになるまでそれが有害だと気付かれないものでメインストリームを汚染したいと願っていて、「アニマル・ナイトレイト」を、そうするのに完璧な乗り物だと思ったのだ。その曲は、いろんな意味で、それが最も成功したものでなかったとしても、おそらく僕たちを最も象徴する瞬間となり、その歌詞が曲をある種の意図を示す宣言となり、スエード国の非公式国家と成した。
AWTBT パート1 その20
THE ONLY THING WORSE THAN BEING
TALKED ABOUT IS NOT BEING TALKED ABOUT
噂になるより悪い唯一のことは、噂にもならないこと
パブの煙った楽屋に音楽が鼓動し、僕はバーへと道を押し開き、押し合う人々の間を身を捩らせながら進んで、僕のゴムの靴底はタバコの灰まみれの床の上にぶちまけられて乾いたビールのにベタベタとくっついた。僕はバーの店員にいい気分で身振りし、くしゃくしゃになった五ポンド紙幣を差し出すと、カウンターの端っこから女の子が横にサッと動いて僕を見ているのに気がついて、彼女は不思議そうに眉を上げ、わずかに顎を持ち上げ、微かに反抗的な仕草をして、綺麗な顔にほのかな微笑みが一瞬浮かんだ。僕が支払いをすると、彼女と僕の間にいる人が僅かだがいなくなり、彼女がこっそり僕に向かってくるのが分かった。彼女の視線に合わせるために振り向き、彼女の淡い青色の瞳を見つめると彼女はようやく口を開いた。
「あんたってスエードのシンガーよね?」
「ああ」
僕は得意げに答え、彼女の頬骨のあたりにまぶされた淡く散らばるそばかすをじっと見つめながら、僕の唇を彼女の唇に押し付けたらどんな感じなのかをすでに妄想していた。
「そうだと思った」
彼女は答えた。
「あんたのバンドってクソよね」
バンドは常に作曲するか常にレコーディングするか常にツアーするかしなければならない。それらがバンドにとって唯一受け入れられる存在状態で、自己定義の重要な三本柱をなしている。それはまるでサメのように、泳ぎ進んで常に動き、慎重に身を潜め準備を怠らずいつでも勤勉であることなのだ。そしてその原則に静かに従いながら次のシングルは「メタル・ミッキー」になり、成功の幻想に酔いしれ、ピックとディクタフォンを装備し、再びプロデューサーとしてエド・ビューラーと共にプロトコール・ステュディオズへ送り込まれた。けれどもこの時に定型的なやり方が必ずしも上手く行くとは限らないことを僕らは学ぶことになる。 僕らがレコーディングした最初のバージョンは、「ドラウナーズ」で成功したテンプレートに従う試みだったと思う。軽く、ポップで、ひどくがっかりするものだった。なぜか分からないが、エドかバーナードのどちらかがメインのリズムギターに何度も音重ねることに決めていて、それが全てをステータス・クオのようにし、ライブバージョンの生々しく原始的でほぼ官能的なうねりとは全くの別物になっていた。時として音楽を創ると、あるパートの影響力はそれを演奏する楽器の数を重ねれば重ねるほど弱くなる逆の関係がある。時として「フィル・スペクター的」として知られた、音を繰り返し重ねて録音することでスケール感を出そうとする試みは、貧弱でいまいちな音のごちゃまぜとなった。時として、本当に少ないほうがより際立つのだ。
AWTBD パート1 その19
素晴らしく活気に溢れた1992年の夏の間は、僕らの人生の転換点だったような気がした。ウィンザー・オールド・トラウトのサウンドチェックの時に外で芝生に転がって、サラダケバブを咀嚼し波打つ空を見て、僕が思い出すのは、苛立ちと停滞の時期と次の章を早く覗き見したいという強い衝動があったからこそより甘美になった、皆への愛情で体をくすぐられる感覚と、奇妙に混ざり合った落ち着きながらも待ちきれない期待感と、ワクワクする使命感を感じたことだった。それらのショウの時に本物のヒステリーができあがっているようで、ある晩、いつものように最前列のど真ん中に突撃したら、二、三人のファンが僕のシャツをきつく掴んで、陽気にじゃれあっていたら最後にはビリビリに破られてしまって、服はボロボロで殆ど残っていない状態で僕はモッシュピットを抜け出したのだった。それは美しく、僕たちのギグでのちょっとしたお決まりの儀式になり始めた、自然に発生した瞬間だった。それが予想できるようになる前に、密かに僕はこの喜びに満ちた触覚的な儀式を楽しんでいて、幾晩も僕は掴まれに行って半ば喜んで脱がされ、次の日にはダメになった服の代わりを買いに行かなければならなかった。ビリビリに破かれてもいいつまらない安物を買うのは一番簡単そうだったので、サウンドチェックの後に地元のジャンクショップを巡って、安っぽい古いシャツと薄っぺらいブラウスを買ったー最初の二、三曲だけ保たせるためだけのバカげたシフォン風の古着だ。それは一時的にトレンドとなり、僕らに群がり始めた多くのフォトグラファーがそれを計算されて作られた「スタイル」としてフォーカスして、そう見えたであろうことより、柔軟な見方をすれば、そうなのだろうが。僕が僕の周りに作られ始めたペルソナへの性的な糸に気がついていないふりをしたなら、それは嘘ということになる。今こうして座って、結婚して父親にもなった中年男としては、それは微かに滑稽に響くのだが、僕は確かにアンドロジニーのテーマを軽く扱い、時折僕らがオープンにしていることへの、混乱を招く様々な解釈を利用した。再び僕がいかなる「女性性」でも僕のスタイルに採用したことが、部分的には誤って歪められた悲しみの表現であるだけではなく、メディアによって投げかけ返されていた僕のイメージとの自己同一化でもあった。その年のある時に、僕は長く忘れられたライムリザードというオルタナティブ音楽の雑誌でインタビューをして、そこで作曲をする時に僕に内在する主婦やゲイのようなペルソナを、視点を変え作曲が僕にとって新鮮であり続けさせるために、一人目の人格から三人目に変えていくことについて語った。その時に、「僕はホモ経験のないバイセクシュアルだと思う」と軽率に言ったことは主張しておく。それは僕が言ってきたことの中で最も愚かしく最も過剰引用されたことで、きっと僕の墓石にも刻まれるだろう。僕はそんなことを言ってしまった若者の初心さを深く後悔していて、それは嘘をついているとか作り話をしたとかではなく、扇情的な話題になると現代のメディアでは言葉の意味に繊細なニュアンスを許す余地など全くないことを認識することに失敗したからだ。プレスを通じて様々な人に語りかけるのなら、極めて単純な言葉を使わなければならず、でなければ意図した言葉は誤解の波に覆い尽くされてしまい、だから、「ロックンロールを救え」だの「ロックンロールをぶっ壊せ」だのなんだのくだらない話を延々とする無気力でつまらない奴らを大量に生み出してしまうのだ。もちろん、有名な引用は僕のイメージに共鳴して世間をめぐり、それを知らなかったし、自分の目的のために利用しなかったと言うのはもしかしたら不誠実であるかもしれないが、僕が真逆のことに分類されたくないと欲していたというのは事実で、僕を「バイセクシュアル」とラベリングされた箱の中にきちんと入れた人々を憎悪せずにはいられない。アンドロジニーの広範なテーマとセクシュアリティーの曖昧な領域について何か僕の気を引いたものがあるとすれば、アレン・ジョーンズと彼の「Hermaphrodite」シリーズの作品を通じて(アレン・ジョーンズはイギリスを代表するポップアーティストで「Hermaphrodite」は性別の境界や両性具有をテーマとしている)僕に触れた、男性生と女性性の融合についてのニーチェ的な考えだった。彼の本質にある男性的要素と女性的要素を融合した勇敢で興味深い表現。それは下品な性的観光(買春目的に訪れる旅行などのこと)や、七〇年代のグラムロックへの退屈なオマージュや、確かに何か物議を醸そうとしてつまらない試みとして意図されていなかった。正直に言うと、その発言が議論の的となり、衝撃的で挑発的だと見なされたことは、その時代のオルタナティブ音楽の業界が根本的に男性的で保守的なことの現れだと思う。それは少し、ココシャネルの、醜い女はいない、だらしない女がいるだけだ、という有名な発言のように、世間が僕をどう見始めるかということに強く影響した引用で、その限定的な定義の中で戦い、軽く受け流すことはより不可能なこととなった。バンド内でそれは避けられない存在感を持つようになり、しばしの間不可避となり、やっと面白くなり、最終的につまらなくなった。時として、物事を扱う唯一の手段はユーモアで返すことであって、そうしてそれは独自の生命を持つようになり、僕らはそれを「一度もパンクしたことのない自転車」というフレーズとして言及し始めた。そう、その時は面白そうだったのだ。
僕が当時とその時自分がどんな人間だったかに思いを馳せると、全てのことに結びつけられた他の思いの層があったと確かに思う。奇妙なことに、性的な存在であるよりはむしろ感情的な存在であると主張しようとしていたと思う。矛盾していることは分かっているけれど、あるレベルにおいては、性的要素をほぼ中和し、線引きを曖昧にし、ジェンダーの境界線を無くし、僕の作品を、男だとか女だとか異性愛者だとか同性愛者だとか両性愛者だとかという前に、ただ一人の人間のものとして見せようと純粋に試みた。より内省的な作品、ザ・ネクスト・ライフやスリーピング・ピルズやパントマイム・ホースのように、今の一般的な言葉で言う、「ジェンダー・ニュートラル」であるように意図された。僕が自分の思いを語ろうとすればするほど不誠実であるように思われ、より深い墓穴を掘っているように感じられる。けれど、よくて純情、悪くて不器用と看做されるだろうーメディアを理解することの失敗とそのニュアンスの欠如を。
AWTBD パート1 その18
この時期に僕がギグから得た特別な記憶はベルファストの小さなパブでのことだ。ショウは活気に満ちていたが、バーナードのギターが突然鳴らなくなる奇妙な偶然の瞬間までは何も起こらず、曲は途中で止まり、観客が全員コーラスを優しく歌うことが本当に起こったことで結果的に救われたことだ。それについて謙虚にさせられると同時に素晴らしい何かがあり、輝くような一体感に、僕らは突然得意満面の笑みを浮かべるのだった。火花を散らして導火線に火をつける並外れた予測不可能な瞬間の一つ。残りのショウは素晴らしく厄介な暴動になり、耳をつんざくような結末を迎えて、やっと僕らは震えて汗まみれになってエウロパホテルへの帰り道についた。ちなみにそのホテルはヨーロッパで最も頻繁に爆撃されたホテルだとほぼ誇らしげに教えられたホテルだった。僕らはバーに集まって、喋ってベックスビールのボトルをチビチビ飲んでいると、突然外から不揃いなよろめくような合唱がすることに気付いたことを覚えている。少しすると、彼らが「ドラウナーズ」を歌っていて、客の半分が道から僕らに愛の歌を捧げるためにホテルまでついてきたことを知ったのだった。帰宅の車が忙しなく通り過ぎ人の群れが歓声をあげて、ロイヤルウェディングの後のウィンザー家の人間のように、楽しそうにニコニコ笑いながら僕らはバルコニーに集まってわざと尊大ぶって手を振ったのは、心が温まると同時に爆笑したくなる瞬間だった。そしてゆっくりと、小さいが熱心な信者の集まりが僕らの周りに集まってきていることに気が付いたーサウンドチェックによく現れ、ショウの後に座って喋り、僕らがふらふらとトランジットに戻り、ぼんやりとしてロンドンの家に戻るか、安い地元のB&Bのツインルームに崩れ落ちる深夜まで、密閉されたゴミだらけのドレッシングルームで身を寄せ合い、ベンソン・アンド・ヘッジズを吸い、オレンジをジャグリングし、音楽について興奮して話し、トリングとライム・レジスとへドン・ブリッジといったような場所から集まったきつく結われた小さなファンの結び目。これはまだ全てが素晴らしく誠実に感じられ、バンドとファンの分裂が起こる前のことで、人々が僕らに会いに来るためにお金と時間を使うことに僕らがまだ心の底から感謝し、また微かに驚いていた時のことだった。勿論、僕ら四人は全員自分自身のファンで、同様に触発された他人に会うのは奇妙な満足感を覚え、バトンを渡したり円を作ったり借りを返しているようで、僕らのエゴが明らかに注目されることによって肥大していってさえ、僕らが新しい友人として出会った素晴らしい人々のカーニバルはまだ小さな規模の段階で僕らには十分だったのだ。僕らはこの無邪気で活力に満ちた少年少女に会うのが好きで、よくタバコの煙で満ちたバックステージに座って、Tシャツにサインして興奮して音楽についてべらべらと喋り、騒々しさは増してカンはバラまかれ灰皿はタバコでいっぱいになった。ツアーをするのはとても新鮮で、全ての日はどうにか一つに融合したーギグとその後のパーティー、移動に費やす早朝とサービスステーションのサンドイッチを食べることでさえ同じ喜ばしい経験に変わった。何年か過ぎて、僕らの関わり方はよりプロフェッショナルになって、僕らはそういうことには一線を引き、パフォーマンスは確実にし、僕らを囲む混沌から離れ、ツアーに地道に努力することを学んだが、悲しくも僕らは結局何か大切なものを失ってしまったと思うのだが、増え行く素敵な人々の群れと遊んだ初期の楽しい時間は特別で、僕らがなろうとしたバンドの性質に色んな意味で必要不可欠となった。それが忠実で熱心なスエードの共同体の始まりだと僕は喜んで言い、今日もまだ僕らの周りにたむろし、彼らのスタミナと忠実さと献身が僕を驚かせ続ける素晴らしく熱狂的な集団だ。
AWTBD パート1 その17
EFFETE SOUTHERN WANKERS
南部の玉無しマスかき野郎ども
「パントマイム・ホース」の最後のギターフレーズがゆっくりと終わりに向かい、僕ら四人はゴウロック・ベイ・ホテルのバックルームのステージに立っていた。僕らはステージに視線を投げかけ、天井に固定されているカラーフィルターを一枚つけたフラッドライトから来る赤い光に急速に僕らの顔は照らされた。わずかな散り散りの観客が、僅かなパラパラと起こるお決まりの拍手を通じて、獰猛に僕らを睨みつけ、最後の拍手が消えたベタベタの床を擦る足音が会場がいっぱいになり、僕らが手書きのセットリストを見て次の曲の準備をしている時は全くの嫌な沈黙があった。突然、影の外のどこかから、グラスゴー訛りのドラ声が大きくはっきりと、痛々しい沈黙に対して大きく響き渡った。
「この南部の玉無しマスかき野郎ども!」
M8の黒いゴム引きアスファルトの上をオフホワイトのフォード・トランジットのタイヤが逆らって進み、白線と道路の端に散らばる荒地に食い尽くされたツルツルの道と高架橋と、バックミラーに消えていく地味で巨大な一枚岩のような交通標識を通り過ぎた。チャーリーはフロントでハンドルをしっかりと握りながら座り、さらに前進させ、残りの僕らは、車がゆっくりと激しい風に並行しているのを黙って受け入れ、明かりのないヴァンの後部座席のマットレスの上でダラダラ、モゾモゾしていた。そしてそれからが、高速のサービスステーションの朝食と緊張感に満ちたサウンドチェックと安い酢のようなワインとドレッシングルームの薄いチーズの後背地のチカチカするストリップ照明の世界に没入し、1992年のドラウナーズツアーはゴロゴロと音を立てた。少ない人数のクルーが準備しているのを待っている間、終わりのない午後はセロリの茎をいじくり(文字通り訳したが、手持ち無沙汰で何かをいじくっていると思われる)低レベルなベニューのプラスチックフィルムの楽屋で過ごし、夜は感情いっぱいのパフォーマンスの喉の痛みとディオニソス的な過剰な狂乱に迷った。平凡と異常の奇妙な不協和音のブレンドの日々だった。プレスによる僕らの一時的な神格化は至る所で色んな反応を引き起こした。僕らがゴウロックでプレイした時の敵意に満ちた無表情の観客は、おそらく甘やかされた特権的な大都市のエリートのメディアの寵児のグループと見做したかは明らかに疑わしい。状況が真実威圧的でなければ、僕らに投げつけられた素晴らしい不条理な侮辱に笑い転げていただろう。雄弁と罵倒と皮肉の天才的なブレンド。そのショウで他に覚えているのは、 マットがギグの後に便所から出てきて、フラフラしている巨漢のごろつきに「ファッキンスエード」が一体どこに行きやがったのか、と脅すように訊かれ、映画の有名なシーンの中の一つの、喧嘩腰のアイルランド人に便所の前で対峙した時のウィズネイル(「Withnail and I」という1987年のイギリスのカルト映画の登場人物)のように、もごもごと口篭った返事をするためにそいつの酷いスコット訛りを真似せざるを得なかった、と僕らに言ったことだった。けれども、その時期の小さな地方のショーが全てそんな攻撃的なトーンを帯びていたわけではない。ぼくの一番優しい記憶の一つが、何か非常に素晴らしいことが起こりそうな、サウサンプトン・ジョイナーズ・アームズでプレイしたことだった。ボロボロのフロック壁紙と積み重なったプラスチックカップという慎ましい設備だったが、ぼくが小さな顔の海を見渡すと、そこにいる誰もが特別な何かが起こりそうで、それは誰にも制御できないことを知っているような、「その瞬間」のようだった。スエードが本当に「発生」した瞬間を定義づける個人的な一つの記憶が僕にあるとしたら、実際にそのショーになるだろう。バンドと観客が同じ最後を目指して結びついたと感じた初めて体験した時に覚えた幸福感の急速な高まりを忘れない。間違えったことをやることはほぼあり得ないと自覚した演者として受け止める、ー的確な状況に置かれた僕たちと群衆の間で進んで行われた共謀によって作られた一種の目の眩むような完璧さの幻影ー、狂ったような止められない力の奔流。それが僕が初めて本当に力の流れに気づいた時で、ライブをすることは単に義務的に自分たちの歌を見せるそれ以上のことで、いいギグと素晴らしいギグの違いは、ステージでの演者と観客の終わりのないレスポンスの応酬と客の共謀であると僕が悟った初めての時だった。時折、観客もまた自分たちにも役割がある、映画を観る時とは違って、僕らのプレイのやり方は観客の反応に大いに影響されることを理解していない、と感じられるような時がある。何年も過ぎると、それは静かに僕を夢中にさせて、おそらくどのバンドなんかより、スエードには上手くやるにはフィードバックが必要で、時としてライブを成功させるには懸命にそれを作り出すことを意味していた。