Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その8

ブレ様自伝翻訳行きます! どんどん下達していくばかりのうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 その年の四月のある時の僕らに関するお喋りの集会は音楽週刊誌のメロディー・メーカーにレコードのリリースと同時のインタビューを行うように刺激した。以前に僕らはつまらない2・3の新人バンドの小記事と一緒にメディアの池に爪先を浸したが、今回はメジャーの特集記事で、僕らのEPを聴き適切に刺激された編集者スティーヴ・サザーランドによって行われたのだった。スティーヴは面白い性格の、悩ましいまでに頭脳明晰な、だが支配的でもあり、強烈な野心の糸があり、強欲に話を追求するプロのジャーナリストだった。彼の中に僕は毅然とした感傷的ではない性質を感じ取り、僕らを超えて未来を見据え、僕が思うに彼はスエードを単なるバンドではなくムーヴメントの兆候だと見たのだろう。僕はまだインタビューを受ける本当の技術を身につけなければいけなかったのだが、だから僕が憶えているのは微かに僕の眼識から外れている感覚があったことと、実のところマットのほうがより引用する価値があり、でも、よく考えると彼はずっとそうだった。

AWTBD パート1 その7

ブレ様自伝翻訳行きます! あいも変わらず低レベルな翻訳を垂れ流していることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 

明日のフィッシュ・アンド・チップスの紙

 

 別なグループの不調和で耳障りな轟の小集団が演奏する完全に違う歌はハックニー・ロードのプレマイセズのリハーサルルームの廊下に流れ込んだ。千の未契約のバンドの饐えた汗とタバコの吸いさしの匂いがする所で、バスドラムのドスドスという音とベースギターの噛み合いとガンガンという音が、ひび割れたヴィクトリア朝のプラスターボードの天井から漂う薄い塵埃の霧を通り、スペアのギターの弦とビスキュイとポテトチップスが貯蔵された小さな防音ブースの隅にいつの間にか端座していた。その背後で無愛想なもぞもぞとしているオーナーがミルクたっぷりの紅茶を調理台の上にポンと置いて僕を見た。「二ポンドだ」と彼は言った。ぐちゃぐちゃに絡まったジーンズのポケットを掘り、二・三枚の硬貨を取り出して彼に渡した。彼は金を受け取り僕から目を逸らさなかった。「メロディー・メーカーで君の記事を見たよ」彼はよく分からない笑顔を見せた。「ああ、そうだよ」不承不承の承認の肯きを半ば期待しながら、僕は明るく笑った。「イギリスで一番の新人バンド?」彼は呟き、またしかめ面をした。「この建物の中ですら一番でないのにね」

 

 

AWTBD パート1 その6

ブレ様翻訳いきます! 全く翻訳の基礎ができていない人間が訳したウンコ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 これはバーナードと僕の友人関係において素晴らしい時だったー僕らはきつく結びつけられ、急速にお互いの存在に、ようやく共に生み出したものに経緯を表するようになった。じめじめした苦い失敗の年月は固められた絆としてセメントされ、ようやく世界の耳目が僕らのやっていることに開かれ始めているようだった。僕らのもがいているバンドとしての最初の少しの冬は、殆どの音楽的ワナビーが直面するありふれた月並みな無関心に出会わされたが、僕らが無関心に対抗した戦いを押し進めたことは、どちらかと言えばより激しくなったようで、僕らは、不可欠な初期設定(原文required default.おそらくはパソコンのプログラムの用語だと思われる)の、九〇年代初めの、インディーバンドの空っぽの舞台の、クスリで朦朧とした冷淡さと共に落ち着かずに座っている上の空の観客に向けてエッジの効いたショーをやり続けた。しばしばステージには聴衆より多い人間がいたし、ある時に僕らは非常に屈辱的で文字通り無意味なギグを一人の前でやった。けれども最終的に暴力性とアクシデントと進化のコンビネーションを通じて、自身の声を見出し、ようやく人々は耳を傾け始めた。バーナードと僕はクローヴのタバコをシェアし、ガタガタという地下鉄に乗り、興奮して喋り、陰謀を企て将来を設計し、お互いの言葉を引用し、そして、若者が死とは不可避だと知りながら、それは僕らの予測可能な直接取引からは隔たっているのと同じで、ロックの伝説の年代記に書かれているように、僕らの間の不和の奇妙な奔流だけではありえないほどに不適切で、時としてメメント・モリ、死の警告を思いこさせるのだった。キャンバスの隅に描かれた頭蓋骨。全般的にバンドに潜む活発な自尊心と友愛もまた強烈に膨らみ、ジャスティーンの別離に続く能動的な変化はサイモンに、特に周辺から現れることを許し、より完全に優しく忠実で愉快な友人である、今の彼と同じ、ことを明らかにし、僕らが初めて出会った時の礼儀正しいつまらないパンク野郎以上の存在になった。
 僕らはロンドンの象徴的な小さなライブハウスでライブをやり始め、危険なまでに空売りされていることを常に確約され、その中は湯気の出るような汗まみれの体でうねり、ほぼ中に入ることは不可能だった。この造られた過剰な興奮は、バンドの芯の特性と共に維持され、ありふれた日々を超越しよう、より高い位置へと手を伸ばそうと欲していた。僕がずっと愛好してきたのは手の届かない非現実的なアーティストだった。ピストルズのようなバンドでさえ、大騒ぎとハイベリーの旋律にも関わらず、僕らの残りの別な背景から切り離されたようだった。戯画化されデイグローのけばけばしい蛍光色の、どいうわけか異邦人のような。尊大だと思われることを願うことなしに、全ての「僕らはただ単にファンと同じ存在なんです」という態度は僕に、自分自身を子供の「親友」だと思い込んでいた父を思い起こさせる。誤った、恩着せがましい、結局空っぽな。その見解がどれほどダサいということにも関わらず、どんなパフォーマンスもつまるところエリート主義であることとそのステージには明確な目的があることー観客から引き離して上昇するーその中にある差別的な力はドラマの重要な要素であるということは僕を打ちのめしてきた。コベントガーデンのアフリカセンターでのギグはシングルのリリースに先立って行われ、僕らが人びとが本当に僕らの持っている力に何か期待しているのかもしれないと気付き始めた最初の時だったと思う。僕が覚えているのは、400人の観客が実際に苦労して得た金を僕らを見るために実際に支払った事実に衝撃を受けたことだった。僕がそのギグで思い起こすのはぼんやりとつまらなく、僕らは未だ自分たちの気持ちを集中させることと、それらをパフォーマンスに反映させることを学んでいる途中で、結果として指揮と権限の欠落した微かなはにかみのショーとなった。しかしながらその時点で、奇妙なしくじりはたいした問題ではなく、好意の大きなうねりを僕らは得ようとしていると感じ、それは優しい波のように僕らを運び始めたのだった。

AWTBD パート1 その5

ブレ様自伝翻訳行きます! 脳みその代わりに頭におが屑が詰まっている人間が訳したウンコ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 僕が重要だと思うのは、それらの知らない、忘れてしまったものたちが、スエードが初めて浮上した時に見た景色だったということを理解することだ。僕は当時のオルタナティブミュージックがどん底だったと言うことがアンフェアだとは思わない。ストーン・ローゼズの漠然とした亀裂とシューゲーイザーのブームのどん詰まりが作り上げたのは、短パンを履いた学生のような野心のない長く忘れられたバンドのごちゃまぜの混沌に溺れた空白地帯だったー退屈なインディーの信任状とシックス・フォーム(イギリスの中等教育の最後の2年間)の政治に誇りを持っている、酷い価値のある行い。おそらく僕は意地が悪く不愉快だと解釈される危険にあると分かっているし、僕の気持ちはちょっと不安定だけれど、僕らは面目をかけて彼らに取ってかわらなけれならない気がし、彼らも一種の反発の見本を僕らに提供してくれた。全てのニュー・ウェーブ・バンドは残らず見捨てられ、一種のエディプス・コンプレックスの感覚で彼らを全滅させることはある意味で彼らの義務だった。この「父親殺し」の行いは、ポップミュージックが教育に非常に効果的であった頃の世代間闘争の小宇宙のように、自己定義の形式として、彼ら自身から距離を置くために必要なのだ。現在進行形の死と再生の連なり。僕らがなりたかったのは、あのバンド達がそうでないもの、ー傷つきやすい、運動によって起こる、野心的で、素晴らしいーで、僕らはこのマニフェストの信条をザ・ドラウナーズのEPの三曲に注ぎ込んだ。予算は控え目で、それはセッションが最低限度しかできないことを意味していた。僕らの理想主義にも関わらず、僕らはまだ若いバンドで、エドは生々しい脈拍を掴まなければいけないことを知っていて、二つのボーカルとギターのオーバーダビングとチェロとボンゴにも関わらず、「ザ・ドラウナーズ」はライブの輪廻からそう遠く逸脱はしなかった。それらの質感はエドの並外れて正確な判断によるものだけれど、軽快なメロディーの調子をもたらし、曲を浮上させ、僕らがそれまで録音した中で最良のレコーディングを成し遂げた。「トゥー・ザ・バーズ」は、そうするべきだった形より原始的ではないバージョンを与えた、僕らが連続するギターのループを付け加えることに逆らえなかったような、初めてスタジオに入ったバンドの典型的な幼稚さから抜け出ていた。正直になると、「マイ・インセイシャブル・ワン」は付属物だった。それはレコードがリリースされるまでではなく、曲はプレスの間で注目を集め始め、モリッシーによってカバーされ、それがどんなに貴重であるか手遅れになってから僕らは分かったのだった。初期の2、3のショウに彼が来ていたのは気がついていて、カムデン・パレスの後で、僕らのセットの間に彼がメモを殴り書きしていたのを見たと思うと誰かが呟いていた。彼が歌詞を覚えようとしていたか否かには議論の余地があるが、ある日ポルトベロ・マーケットをフラフラしていたら、ブートレグのカセット売りの屋台が僕ににじり寄り、彼のスイスでのギグからの録音テープを僕の手に押し付けた時に、大変なショックとなった。フラットに戻って彼のバージョンの曲を聴くのは奇妙な経験だった。僕が憶えているようなのは、彼が罵倒語を抜き出し、バンドは明白に僕らのEフラットのドロップチューニングをどう解釈するか混乱していることだったが、僕の若さのまさに備え付けの一部だった声が、僕自身の言葉を歌うことを聴くのは、勿論、明白な魔術をかけられたのだった。何にもましてだけれど、僕が知覚したのは最初の音楽的英雄が単なるミュージシャンなどではないということだと思う。彼らは僕の人生の舵を取る手助けをしてくれた人たちで、僕の政治的主張に影響を与え、どのように着飾るか示唆し、何を食べるべきでないかさえ指示し、彼らの一人によって僕の作品を曖昧に承認されるのを聴くのは素晴らしいことだったが、ある意味で微かに混乱した瞬間で、教師が教え子に最後に敗れた時のようで、僕はムーアハウスのカビ臭いベッドカバーの上に横たわり、霧雨の午後に、勝利感と憂鬱の奇妙なブレンドに圧倒されてそれを傾聴していたことを憶えている。後知恵によって「マイ・インセイシャブル・ワン」をBサイドの地位に格下げしたのは、僕らが下した最初の悪しき判断のはえ縄で、名作を裏面の荒野に追いやり、それらの聴衆を限定し、だからそれらの不在によってアルバムが弱くなったが、同時にこの浪費は自覚的で熟慮されていた。僕らは生産活動の全ての瞬間を重要にしたかったし、それは特にB面においてもでさえそうだった。適切に考えるに、それが僕らがザ・スミスからまさしく受け継いだもので、かれらのその時代の裏面は最高級だった。それがファンでいることをゾクゾクとさせ、バンドがその献身を捧げ物で賞賛するように、息もつけないこの発見の感覚こそが、僕らが創作を続けたいと思ったものだ。もし「マイ・インセイシャブル・ワン」と「トゥー・ザ・バーズ」と「ヒーズ・デッド」と「ザ・ビッグ・タイム」が僕らのデビュー作となっていたとしても、単純にもっといいレコードになっていただろう。

AWTBD パート1 その4

ブレ様翻訳行きます! 向上心もなく努力もしない怠け者が訳したゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします! 誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 ショウの間にヌードレコーズのサウルは、エド・ビューラーというプロデューサーにノースロンドンのプロトコールスタジオにブッキングをして、僕らが「ザ・ドラウナーズ」と「トゥー・ザ・バーズ」を両A面にして、「マイ・インセイシャブル・ワン」を控えにした、正式なファーストEPをレコーディングしようとした。彼はデモを何曲か聴いて、それらを好きになって、僕らのライブを観に来て上手に持ち上げて、僕らがやっていることを、彼が共に育ってきた70年代ロックの最愛の殿堂と似ていると解釈することを決めた。エドは保守的な鋳型で鋳造されたプロデューサーでー情熱的で、ひたむきで、しばしばピッタリとした黒いスーツに体を捩じ込んだ風変わりな恰好をして、スカーフとロングコートに身を包んでコントロール・ルームをどすどすと歩き、放送されなかったドクター・フーや狂った作曲家の戯画のように激しく意見を述べた。何度かのセッションが推移して、彼は僕らを導き、形作り、彼の温かいおじのようなあり方の、未知のスタジオの遊び場に僕らを先導し、仲間内のジョークと愉快な話で日々を刺激的にし、それが僕らを一つのチームとして結いあげ、最終的に何十年にもわたる関係の基礎を生み出すのだった。広大なスペクトラムにおいて、エドのプロデューサーとしての役割を定義づけたのは、人の扱い方における彼の素晴らしい技術で、特に彼が仕事を共にしたバンドを活気づけることだった。彼は人を確固とした安心した気持ちにさせるそれらの人間の一人だった。僕はいつもスエードが彼と制作する時に彼に感じたのは、単なる仕事以上の、僕らが彼を僕らの奇妙な一族の一員と見做していることを理解していることだったー道に迷った僕らの息子の頼れる父親であることを。彼は僕らを励まし行動に駆り立てるやり方を熟知し、僕らの伸縮の限界を理解し、その限界点まで進め、僕らを決定づける作品となるまで操縦した。僕らの音楽にさらに70年代ロックの要素を探り出して、僕が思うに、彼が尽力したので僕らはプレスに気づかれるようになったのだろう。他のプロデューサーの粗野で好戦的な手の中のエッジで展開していたら、バンドはもっと重々しくなっていただろうし、より「オルタナティブ」な鋳型で鋳造されていだろう。僕らはその決意に身を固めた一つの党で、無謀だったけれども、インディーのゲットーの狭い境界を越える音楽を作る高邁な使命を帯びていた。いまだに若さゆえの傲慢さには赤面させられるが、僕らは絶望的なまでに、当時の劣等生の灰色の泥沼から離れた何者かなのだと自分たちを定義したかったのだ。

AWTBD パート1 その3

ブレ様自伝翻訳行きます! 読んだらすぐ訳しているので、文章の構成など一切ないゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 そうして90年代が急に僕らに身を傾け早口で青二歳の時期に話しかけ、スエードが抜け出し明滅する、僕らの借間のゴミから、僕らの人生の擦り切れた混沌と初期の曲に霊感をもたらした静かな廃墟の舞台から埃を払った。しかしながら、僕らのは一番長い「一夜にしての成功」とされた。僕はかつて僕らのキャリアの一連の物語を、「丘の上から落とされた乳母車」と称したことがあり、それは今でも相応しい隠喩のように見える。それはいつでもなんだか不安定で制御不能で極めてかすかに恐ろしく感じられた。きっと、乳母車に乗った「子供」は僕ら四人で、頬を打つ激しい風に叫びながら、道路に転げ落ちていったのだ。
 無論、僕らが速度を上げる前に、パブの奥の部屋でブツブツ言っている聴衆を納得させようと試みながらステージに立つ多くの無様な夜がいくつもあり、カムデン・アンダーワールドとアイリントン・パワーハウスのような場所でー頑固なブラックジーンズの、「感動させろ」と顔に書いた兵隊の、腕組みと無慈悲の海に対決してー、けれど、一度ティッピング・ポイントに到達すると、僕らは最終的に、僕らを引っ張るゾクゾクする必然性の動作に降伏する感覚があり、そしてそれは僕らより大きい存在になり始めていた。「シーン」に近づきそうだった何かがなかったから何かがあるとは言うつもりはなく、ー僕らの動きはいまだ僕らだけのものだったし、僕らが先兵なのなら、たった一隊の先兵だったと感じた。音楽史は、時として現在の真実に調整するために過去の断片をつなぎ合わせる不注意なやり方で過去何年にも渡るそれを少しずつ書き直してきた。穴の空いた靴とバティストのドライシャンプーとムスクの匂いのするみっともなく脱色した髪の絡まりと共にステージからステージへと千鳥足で移動し、屍衣の花束にうんざりしながら、ゆっくりと、全てのバンドが懸命に築いたに違いない脆い基礎を一つにし始めていたーファンベースだ。これはソーシャルメディアが現れる何年も前の、口コミが文字通りまさしく、そこから抜け出し演奏し、「成功する」ための唯一の方法で、最前列で汗まみれの肉体を押しつけ、ベタベタする油ぎった掌の蠢きを感じながら、擦り切れたコールテン地のシートに背をつけてステージを報告される。僕らは極めて慎重にロンドンの外部に網を広げ始め、最初はタンブリッジ・ウェルズ・ランブル・クラブとブライトン・ザップのような場所に、オフホワイトのフォード・トランシットをレンタルして、ポッポと音を立てて高速道路を進んだ。あの日々の旅は、どれだけ慎ましやかか平凡かに関わらず、いまだ新鮮で、そうしてシルクカット(イギリスのタバコ)を吸ってぺちゃくちゃ喋りながらサービスエリアでサンドイッチを食べる移動し、友人のチャーリー・チャールトンがM23道を車を疾走させるのは、素晴らしい冒険のように感じられた。僕らはよく古くてカビ臭いマットレスの敷かれたバンの後部に座って、マットが前で起きてチャーリーがタバコに火をつけて彼を眠らせないようにしている間、訳のわからない早口のお喋りをそこに至るまでの道程でして、安い赤ワインを飲んで、帰りには酔い潰れていた。二十代の若者にとって、バンドの一員であることについてゾクゾクする男性的で部族的な何かがあり、侘しい繰り返しのセットに陥る前の快活な時期には、何かに身を置いていることへの力強い感覚があり、非常に変わった定義づけによって、なんでか道を外れてしまうと感じた。僕らはサウンドチェックからサウンドチェックへと衛星都市周辺と環状道路を周り、カリカリのウォーカーズ(ショートブレッドなどのブランド)の日常食とニコチンを摂取して過ごし、低い熱狂が築かれ始めていた。

AWTBD パート1 その2

ブレ様自伝翻訳いきます! 素人がなんとなくでフワッと訳していることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所がありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

そうしてここに座って僕は僕が書かないと言った本を書き、僕が語りたくなかったことについて語っている。きっとそれは不可避なのだろう。いくぶん生々しい世界に僕の物語を物語り、聞いてもらいたいという子供っぽい要求を超えて、何が僕をここまで牽引したのだろうか。数え切れない早朝に、横たわって天井を凝視しながら、僕が思案し自分自身に約束したのは、僕らがすでに幾度も読んだのと同じ本は書くまいということだった。ほとんどのロックバンドが同じ帰結のチェックポイントを通り同じ帰結の道を沿って同じ帰結のノロノロ歩きをしがちで、蛙か何かのように不快なライフサイクルが定められ、だから物語は、特に誰もが最終章の出来事を知っている時は、やむを得ない同じ空気に突入するのだ。だから代わりに僕がこれらのページでやろうとしていることは、僕自身の物語の要素を使って、腕を伸ばしてより広い視野を展開するための術とし、成功と自己破壊と再回復のもがきの道程を見つめ、僕に働きかける何らかの力について語るためにその物語を利用し、おそらくぶんぶんと呻る機械装置のなんらかの真実を発掘し、しばしば気づかれない、特にそれが作用するものによって、人々がラジオで耳にするバンドを想像することだ。これはきっと野心的に見えるだろうが、それは僕の物語の第二部分のなんらかの所有権を主張しようとする僕のやり方で、その物語はメディアによる真面目な記録で、確かに型にハマって再度語る必要はない。特筆すべきは暫くして考えれば、その当時自分に投げかけられていたことが明確になるということだ。今僕はあの最盛期の狂ったローラーコースターの日々の間に僕に起こったことを見ることができ、他の誰かに起こっていることもほぼ分かり、だが一方でその時に戻ると素晴らしく個人的で、まさしく事態に没入する感覚があり、僕はあるがままの事態に、ガラスに顔を押しつけ、真実を見るには余りにも近づき過ぎていた。これは、だから、僕の物語の第一部分の、ページの角を折られた教養小説のみっともない延長ではないけれど、代わりに、種類の違う物語で、何年にもわたって僕の周りに固定されたギヤと歯車を突っつき回す何かで、上手くいけば二、三の、自分自身に投げかける疑問と、正確に起こったこととその理由について答えるだろう。