Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その3

ブレ様自伝翻訳行きます! 読んだらすぐ訳しているので、文章の構成など一切ないゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 そうして90年代が急に僕らに身を傾け早口で青二歳の時期に話しかけ、スエードが抜け出し明滅する、僕らの借間のゴミから、僕らの人生の擦り切れた混沌と初期の曲に霊感をもたらした静かな廃墟の舞台から埃を払った。しかしながら、僕らのは一番長い「一夜にしての成功」とされた。僕はかつて僕らのキャリアの一連の物語を、「丘の上から落とされた乳母車」と称したことがあり、それは今でも相応しい隠喩のように見える。それはいつでもなんだか不安定で制御不能で極めてかすかに恐ろしく感じられた。きっと、乳母車に乗った「子供」は僕ら四人で、頬を打つ激しい風に叫びながら、道路に転げ落ちていったのだ。
 無論、僕らが速度を上げる前に、パブの奥の部屋でブツブツ言っている聴衆を納得させようと試みながらステージに立つ多くの無様な夜がいくつもあり、カムデン・アンダーワールドとアイリントン・パワーハウスのような場所でー頑固なブラックジーンズの、「感動させろ」と顔に書いた兵隊の、腕組みと無慈悲の海に対決してー、けれど、一度ティッピング・ポイントに到達すると、僕らは最終的に、僕らを引っ張るゾクゾクする必然性の動作に降伏する感覚があり、そしてそれは僕らより大きい存在になり始めていた。「シーン」に近づきそうだった何かがなかったから何かがあるとは言うつもりはなく、ー僕らの動きはいまだ僕らだけのものだったし、僕らが先兵なのなら、たった一隊の先兵だったと感じた。音楽史は、時として現在の真実に調整するために過去の断片をつなぎ合わせる不注意なやり方で過去何年にも渡るそれを少しずつ書き直してきた。穴の空いた靴とバティストのドライシャンプーとムスクの匂いのするみっともなく脱色した髪の絡まりと共にステージからステージへと千鳥足で移動し、屍衣の花束にうんざりしながら、ゆっくりと、全てのバンドが懸命に築いたに違いない脆い基礎を一つにし始めていたーファンベースだ。これはソーシャルメディアが現れる何年も前の、口コミが文字通りまさしく、そこから抜け出し演奏し、「成功する」ための唯一の方法で、最前列で汗まみれの肉体を押しつけ、ベタベタする油ぎった掌の蠢きを感じながら、擦り切れたコールテン地のシートに背をつけてステージを報告される。僕らは極めて慎重にロンドンの外部に網を広げ始め、最初はタンブリッジ・ウェルズ・ランブル・クラブとブライトン・ザップのような場所に、オフホワイトのフォード・トランシットをレンタルして、ポッポと音を立てて高速道路を進んだ。あの日々の旅は、どれだけ慎ましやかか平凡かに関わらず、いまだ新鮮で、そうしてシルクカット(イギリスのタバコ)を吸ってぺちゃくちゃ喋りながらサービスエリアでサンドイッチを食べる移動し、友人のチャーリー・チャールトンがM23道を車を疾走させるのは、素晴らしい冒険のように感じられた。僕らはよく古くてカビ臭いマットレスの敷かれたバンの後部に座って、マットが前で起きてチャーリーがタバコに火をつけて彼を眠らせないようにしている間、訳のわからない早口のお喋りをそこに至るまでの道程でして、安い赤ワインを飲んで、帰りには酔い潰れていた。二十代の若者にとって、バンドの一員であることについてゾクゾクする男性的で部族的な何かがあり、侘しい繰り返しのセットに陥る前の快活な時期には、何かに身を置いていることへの力強い感覚があり、非常に変わった定義づけによって、なんでか道を外れてしまうと感じた。僕らはサウンドチェックからサウンドチェックへと衛星都市周辺と環状道路を周り、カリカリのウォーカーズ(ショートブレッドなどのブランド)の日常食とニコチンを摂取して過ごし、低い熱狂が築かれ始めていた。