Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その4

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 ショウの間にヌードレコーズのサウルは、エド・ビューラーというプロデューサーにノースロンドンのプロトコールスタジオにブッキングをして、僕らが「ザ・ドラウナーズ」と「トゥー・ザ・バーズ」を両A面にして、「マイ・インセイシャブル・ワン」を控えにした、正式なファーストEPをレコーディングしようとした。彼はデモを何曲か聴いて、それらを好きになって、僕らのライブを観に来て上手に持ち上げて、僕らがやっていることを、彼が共に育ってきた70年代ロックの最愛の殿堂と似ていると解釈することを決めた。エドは保守的な鋳型で鋳造されたプロデューサーでー情熱的で、ひたむきで、しばしばピッタリとした黒いスーツに体を捩じ込んだ風変わりな恰好をして、スカーフとロングコートに身を包んでコントロール・ルームをどすどすと歩き、放送されなかったドクター・フーや狂った作曲家の戯画のように激しく意見を述べた。何度かのセッションが推移して、彼は僕らを導き、形作り、彼の温かいおじのようなあり方の、未知のスタジオの遊び場に僕らを先導し、仲間内のジョークと愉快な話で日々を刺激的にし、それが僕らを一つのチームとして結いあげ、最終的に何十年にもわたる関係の基礎を生み出すのだった。広大なスペクトラムにおいて、エドのプロデューサーとしての役割を定義づけたのは、人の扱い方における彼の素晴らしい技術で、特に彼が仕事を共にしたバンドを活気づけることだった。彼は人を確固とした安心した気持ちにさせるそれらの人間の一人だった。僕はいつもスエードが彼と制作する時に彼に感じたのは、単なる仕事以上の、僕らが彼を僕らの奇妙な一族の一員と見做していることを理解していることだったー道に迷った僕らの息子の頼れる父親であることを。彼は僕らを励まし行動に駆り立てるやり方を熟知し、僕らの伸縮の限界を理解し、その限界点まで進め、僕らを決定づける作品となるまで操縦した。僕らの音楽にさらに70年代ロックの要素を探り出して、僕が思うに、彼が尽力したので僕らはプレスに気づかれるようになったのだろう。他のプロデューサーの粗野で好戦的な手の中のエッジで展開していたら、バンドはもっと重々しくなっていただろうし、より「オルタナティブ」な鋳型で鋳造されていだろう。僕らはその決意に身を固めた一つの党で、無謀だったけれども、インディーのゲットーの狭い境界を越える音楽を作る高邁な使命を帯びていた。いまだに若さゆえの傲慢さには赤面させられるが、僕らは絶望的なまでに、当時の劣等生の灰色の泥沼から離れた何者かなのだと自分たちを定義したかったのだ。