Brett Anderson自伝Afternoon With the Blinds Drawn翻訳ブログ

ブレットアンダーソンの自伝二巻目翻訳ブログ

AWTBD パート1 その5

ブレ様自伝翻訳行きます! 脳みその代わりに頭におが屑が詰まっている人間が訳したウンコ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 僕が重要だと思うのは、それらの知らない、忘れてしまったものたちが、スエードが初めて浮上した時に見た景色だったということを理解することだ。僕は当時のオルタナティブミュージックがどん底だったと言うことがアンフェアだとは思わない。ストーン・ローゼズの漠然とした亀裂とシューゲーイザーのブームのどん詰まりが作り上げたのは、短パンを履いた学生のような野心のない長く忘れられたバンドのごちゃまぜの混沌に溺れた空白地帯だったー退屈なインディーの信任状とシックス・フォーム(イギリスの中等教育の最後の2年間)の政治に誇りを持っている、酷い価値のある行い。おそらく僕は意地が悪く不愉快だと解釈される危険にあると分かっているし、僕の気持ちはちょっと不安定だけれど、僕らは面目をかけて彼らに取ってかわらなけれならない気がし、彼らも一種の反発の見本を僕らに提供してくれた。全てのニュー・ウェーブ・バンドは残らず見捨てられ、一種のエディプス・コンプレックスの感覚で彼らを全滅させることはある意味で彼らの義務だった。この「父親殺し」の行いは、ポップミュージックが教育に非常に効果的であった頃の世代間闘争の小宇宙のように、自己定義の形式として、彼ら自身から距離を置くために必要なのだ。現在進行形の死と再生の連なり。僕らがなりたかったのは、あのバンド達がそうでないもの、ー傷つきやすい、運動によって起こる、野心的で、素晴らしいーで、僕らはこのマニフェストの信条をザ・ドラウナーズのEPの三曲に注ぎ込んだ。予算は控え目で、それはセッションが最低限度しかできないことを意味していた。僕らの理想主義にも関わらず、僕らはまだ若いバンドで、エドは生々しい脈拍を掴まなければいけないことを知っていて、二つのボーカルとギターのオーバーダビングとチェロとボンゴにも関わらず、「ザ・ドラウナーズ」はライブの輪廻からそう遠く逸脱はしなかった。それらの質感はエドの並外れて正確な判断によるものだけれど、軽快なメロディーの調子をもたらし、曲を浮上させ、僕らがそれまで録音した中で最良のレコーディングを成し遂げた。「トゥー・ザ・バーズ」は、そうするべきだった形より原始的ではないバージョンを与えた、僕らが連続するギターのループを付け加えることに逆らえなかったような、初めてスタジオに入ったバンドの典型的な幼稚さから抜け出ていた。正直になると、「マイ・インセイシャブル・ワン」は付属物だった。それはレコードがリリースされるまでではなく、曲はプレスの間で注目を集め始め、モリッシーによってカバーされ、それがどんなに貴重であるか手遅れになってから僕らは分かったのだった。初期の2、3のショウに彼が来ていたのは気がついていて、カムデン・パレスの後で、僕らのセットの間に彼がメモを殴り書きしていたのを見たと思うと誰かが呟いていた。彼が歌詞を覚えようとしていたか否かには議論の余地があるが、ある日ポルトベロ・マーケットをフラフラしていたら、ブートレグのカセット売りの屋台が僕ににじり寄り、彼のスイスでのギグからの録音テープを僕の手に押し付けた時に、大変なショックとなった。フラットに戻って彼のバージョンの曲を聴くのは奇妙な経験だった。僕が憶えているようなのは、彼が罵倒語を抜き出し、バンドは明白に僕らのEフラットのドロップチューニングをどう解釈するか混乱していることだったが、僕の若さのまさに備え付けの一部だった声が、僕自身の言葉を歌うことを聴くのは、勿論、明白な魔術をかけられたのだった。何にもましてだけれど、僕が知覚したのは最初の音楽的英雄が単なるミュージシャンなどではないということだと思う。彼らは僕の人生の舵を取る手助けをしてくれた人たちで、僕の政治的主張に影響を与え、どのように着飾るか示唆し、何を食べるべきでないかさえ指示し、彼らの一人によって僕の作品を曖昧に承認されるのを聴くのは素晴らしいことだったが、ある意味で微かに混乱した瞬間で、教師が教え子に最後に敗れた時のようで、僕はムーアハウスのカビ臭いベッドカバーの上に横たわり、霧雨の午後に、勝利感と憂鬱の奇妙なブレンドに圧倒されてそれを傾聴していたことを憶えている。後知恵によって「マイ・インセイシャブル・ワン」をBサイドの地位に格下げしたのは、僕らが下した最初の悪しき判断のはえ縄で、名作を裏面の荒野に追いやり、それらの聴衆を限定し、だからそれらの不在によってアルバムが弱くなったが、同時にこの浪費は自覚的で熟慮されていた。僕らは生産活動の全ての瞬間を重要にしたかったし、それは特にB面においてもでさえそうだった。適切に考えるに、それが僕らがザ・スミスからまさしく受け継いだもので、かれらのその時代の裏面は最高級だった。それがファンでいることをゾクゾクとさせ、バンドがその献身を捧げ物で賞賛するように、息もつけないこの発見の感覚こそが、僕らが創作を続けたいと思ったものだ。もし「マイ・インセイシャブル・ワン」と「トゥー・ザ・バーズ」と「ヒーズ・デッド」と「ザ・ビッグ・タイム」が僕らのデビュー作となっていたとしても、単純にもっといいレコードになっていただろう。